自分も、相手も、ゆるせるように


マタイによる福音書26:14-27:54

◆ユダ、裏切りを企てる
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
◆過越の食事をする
26:17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
26:18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
26:19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
26:20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
26:22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
◆主の晩餐
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
◆ペトロの離反を予告する
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
◆ゲツセマネで祈る
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
◆裏切られ、逮捕される
26:47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
26:54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
26:55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
26:56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
◆最高法院で裁判を受ける
26:57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
26:58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
26:59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
26:60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
26:61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
26:62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」
26:65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。
26:66 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
26:67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、
26:68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
◆ペトロ、イエスを知らないと言う
26:69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
26:70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
26:71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
26:72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
26:73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

[ 27 ]

◆ピラトに引き渡される
27:1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。
27:2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
◆ユダ、自殺する
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
◆ピラトから尋問される
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
◆死刑の判決を受ける
27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

本日、主のご受難をおぼえる主日を迎えました。
キリストの十字架の死と復活の物語は、すべての福音書だけでなく、新約聖書の約半分を占めるパウロの手紙も含めてほとんどの書が触れている出来事です。
つまりそれだけ、キリスト教の教えの中で絶対に外してはならない出来事であった、そこにキリスト教の救いの根幹がある、ということでもあるのです。

先程お読みした福音書の箇所はその一部でしたが、本来はイエスの受難と死のすべての箇所を読むことになっています。
人々の間で、神から遣わされた偉大な預言者、救い主として迎え入れられたイエス・キリストが、弟子であったイスカリオテのユダに裏切られ、かねてより不満をつのらせていたファリサイ派の人々に逮捕されていったこと。不当な裁判を受けて無実の罪を着せられ、当時の極刑であった十字架刑へと追いやられていったこと。
そしてキリストご自身がそのような理不尽な苦しみへと追いやられてなお、無抵抗で死を受け入れていってくださったということを通して示されたのは、神様の前にすべての人の罪が赦されるためであった、という救いだったのです。
これこそが、キリスト教の教えの中心であります。
だからこそ、そのようなイエスを救い主として信じることによって、あなたも神様に許され、救われる。これが教会がこの二千年以上も変わることなく伝えている福音であるのです。

……という話が毎年この日の礼拝で話されていることの要約なのですが、ある時キリスト教を知らない人にこれだけを伝えると「キレイゴトだ」と言われたことがありました。
確かにそうです。実はよくよく考えてみると「めでたしめでたし、これですべての人が救われるんですね」とはなっていない人が一人だけいるのです。
それは、イエスの弟子、イスカリオテのユダのことです。

皆さんは、イスカリオテのユダという人について、どのような人として捉えているでしょうか。
銀貨三十枚という奴隷一人分の値段で、師であったイエスをファリサイ派に売り飛ばした裏切り者。無実のイエスを十字架へと追いやることになった大罪人。その罪を負いきれず、十字架にかけられていくイエスの前から逃げ出し、自ら首を吊って自分の命を断った哀れな人。
おおよそ、良いイメージは持っておられないかもしれません。
今日はこのイスカリオテのユダに焦点を当てて、キリストの受難を振り返ってみたいと思うのです。

イエス・キリストが行ってきたことは、弱くされている人々の救いとして人々に受け取られてきました。
手の萎えた人や生まれつきの盲人を癒やしたことによって、イエスが神様のもとから来られた救い主として人々に賛美される一方で、そのようなイエスの振る舞いに不満をつのらせていた人々がいました。当時の聖書の先生であった、律法学者たちやファリサイ派と呼ばれる人々です。
彼らが注目したのは、イエスの驚くべき奇跡ではなく、病人の癒やしが安息日に行われた、という部分でした。
彼らは旧約聖書に記されている律法というルールを文字通りに守ることを第一としていましたから、イエスの癒やしが旧約聖書にある「安息日には仕事をしてはいけない」というルールを破っていることだ、と危険視していたのです。彼らの考え方では、たとえ目の前に病に苦しんでいる人がいたとしても、聖書の律法に「安息日には仕事をしてはいけない」と書いてあるため、たとえ医者であってもその人を治療してはいけない、というのです。
対してイエスは、神様の教えを思い起こし、神様の願うように生きることを思い起こす安息日に、苦しんでいる人を助けないでいる、ということが果たして神様の願っておられる振る舞いだろうか? と考えていました。
だからこそ、安息日であろうとも助けを求めている人にその手を差し伸べることは、むしろ勧められるべきだとしたのです。

しかしイエスは、このようなファリサイ派の人々は神様の救いにふさわしくない、と断罪していったのではありませんでした。
本当に神様が望まれている愛と慈しみにすべての人が生きることができるように、人々には教え、ファリサイ派の人々には自分の振る舞いを通して悔い改めるようにと勧めていったのです。
ときには彼らから崖から突き落とされて殺されそうになることもあったイエスでしたが、それでも根気強く、彼らの憎しみや暴力的な振る舞いをゆるし、悔い改めを語り続けた人、それがイエス・キリストであったのです。

では、裏切り者のイスカリオテのユダに対してはどうだったでしょうか。
最後の晩餐の際、イエスは弟子たちの中に裏切り者がいることをこのように告げていきました。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
このように書かれていることから、イスカリオテのユダがイエスを裏切り、十字架の死へと追いやっていった罪は、「この世に生まれないほうが良かった」と言われるほどに深かったと、イエスを十字架にかけた張本人として取り上げられることの多い弟子でもあるのです。

しかし本当にイエスは、ユダだけは絶対に赦されない、救われることのない永遠の罪人であると考えていたのでしょうか。
いいえ、決してそうではありません。なぜならイエスがユダにかけていった他の言葉を聞いていくと、全く真逆の意味が聞こえてくるからです。

ここで、キリストの言葉をもう一度読み返してみたいと思います。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
よく呼んでみると、人の子イエスは、ユダに裏切られたから去っていく、とは言われませんでした。
あくまでイエスの十字架は、「聖書に書いてある通りに」「預言者たちの書が実現するためである」と語られただけであったのです。
それに、「まさかわたしのことでは」と言ったユダに対しても、イエスは「そうだ、あなたが裏切り者だ」とは言われませんでした。
「あなたが言ったことだ」と、悔い改めの余地を残しているのです。
また、ゲッセマネでユダが群衆と共にイエスを捕らえに来た、裏切りが決定的になったときにさえ、イエスはユダに「友よ」と呼びかけるのです。
イエスがユダのことを、自分を十字架へと引き渡す裏切り者として憎んでいたのなら、決してこのようには言われなかったはずです。

このようなイエスの言葉から、聖書の実現こそが十字架の第一理由であるのだと、ユダの前ではっきりと語っていることがわかります。
だからキリストはユダに、このように伝えたかったのではないでしょうか。
聖書に書いてある通りに、私は十字架にかかっていかなければならない定めにある。「だが」、そのために、ユダ、あなたがこんなにも重い罪を背負うくらいなら、いっそ、あなたは生まれないほうが幸せだったかもしれない──と。

キリストはここで、聖書の実現のために裏切り者という大きな重荷を背負うことになったユダに対して、誰よりも深い憐みと慰めをもって接しておられたのです。
だからキリストだけは彼を裏切り者として糾弾することもなく、裏切られてなお「友よ」と呼びかけていったのです。
このことから、キリストは最大の裏切り者であるユダでさえ救おうと、懸命に悔い改めへの招きとして、言葉をかけていったことがわかります。そしてキリストは、ユダを含んだ、本当に”すべての”人の罪を赦すために、十字架の道を進んでいってくださったのです。
しかしユダは、キリストにその罪を告白することもなく、自ら首を吊って、自分の罪を自分で裁いてしまったのです。
ですからユダが犯した最大の罪とは、キリストを裏切り、ファリサイ派に売り渡したことではありません。自分の罪を自分で裁いてしまったことです。
ユダに憐れみを向けて待っていてくださった主に罪を告白することなく、赦しを祈ることなく、自分で自分に死を宣告してしまった、ということが、最も神様の心から的外れになってしまっている、最大の罪であったと言えるのではないでしょうか。

このようなユダに対して、キリスト教会は長い間、彼に裏切り者のレッテルを貼ってきました。
二世紀から四世紀にかけてのキリスト教会の教父たちの著作には、この裏切りのユダをはじめとして、「ユダヤ人がキリストを殺したのだ」という主張がたくさん出てきます。これが後に、キリストを殺した民への復讐と言う名目で、十字軍やナチスによるホロコーストの正当化へと繋がっていったのです。

そして今も、私たちはこのような罪を繰り返してはいないだろうかと思うのです。
私たちは、全ての人が救われること、罪を赦され、悔い改めて生きることを神様が望んでおられることを信じています。しかし一方で、いつの時代でも私たちは誰かを一方的に「悪者」と決めつけてしまうことがあるようにも思うのです。

日本では昔から、何か問題が起こると問題を解決するよりも「誰の責任か」を強く非難するということが先に来ることが多いように思います。
特に昨今ではこれがエスカレートして、何か過ちを犯した「悪者」であればどれだけでも叩いてよい、という風潮が強まっているようにも感じます。
SNS上では毎日のようにいじめや事故が暴露され、責任を問われています。それだけでなく、誹謗中傷と共に拡散し、過ちを犯した人の個人情報を晒しあげて社会的に生きる場所を奪うことさえ起こっています。世界に目を向けても、ある国が他の国へ、正義の名のもとに一方的な争いを引き起こしています。
このような私たちの罪の現実は、当時のイスカリオテのユダと、ユダを見ていた周りの人々のまなざしと重なります。
キリストを裏切った大罪人は、どんな償いをもってしてもゆるされるべきではない、天の国に入れられるべきではないという周りの目、初期キリスト教会の捉え方がありました。そしてそのような目に晒されてしまうことを予期したユダ自身も、自分で自分を追いこみ、死に追いやってしまったのです。

歴史は繰り返します。それは、私たちの中に罪があるからです。
しかし私たちは歴史から学ぶことができます。そこに響き続けてきた神様の言葉に、聞くことができます。
繰り返し罪を犯してしまう私たちでも、歴史を知り、その中にある罪を見出し、信仰によって、罪を避けようとすること、愛に生きようとすることはできるのです。

私たちも、過去の人々のように、自分が赦せない誰かを、ユダのような悪者に仕立て上げてはいないでしょうか。自分の正しさ、自分の意見を押し通そうとするあまり、相手を傷つけるような強い言葉を使うのもやむなしとしてしまったことはないでしょうか。
あるいは私たち自身や周りにいる人々が、ユダのように追い詰められ、自分で自分を傷つけ、自分を死へと追いやろうとしている人はいないでしょうか。
そのような私たちであるからこそ、今日のキリストの言葉に、その心に聞きたいのです。

私たちがどれだけ誰かを悪者として裁こうとしてしまう心を持っていても、自分で自分を悪者にし、自分で自分を傷つけ裁こうとしてしまう人にも、キリストは永遠に変わることのない愛とゆるしをもって「友よ」と呼び掛けてくださるお方であるのです。
そのようなキリストに向き合うからこそ、私たちの中にある様々な罪を告白することができるようになるのです。
ペトロが涙を流して裏切りを悔いたように、私たちも、誰かを赦せない心、誰かを悪者にし、差別し、自分を正当化してしまう心を、神様の御前に告白し、ゆるしていただきましょう。
そのようにして、私たちの心に、誰かを裁くのではなくゆるす心を、一緒に悔い改めようとお互いに手を差し伸べられるような、そんな心を神様からいただいてまいりたいのです。

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