マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書18章本文
◆天の国でいちばん偉い者
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
◆罪への誘惑
18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
◆「迷い出た羊」のたとえ
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
◆兄弟の忠告
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
◆「仲間を赦さない家来」のたとえ
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
ちょこっと解説
イエスが十字架の予告と山の上での不可思議な変容を見た弟子たちが、段々とイエスに対する心の距離が生まれてきているのがわかります。
それは、「イエスにさえついて行けば良い」という状態から、保身に走る姿として表されてくるからです。
「天の国で一番偉い者は誰か」という議論は、弟子たちがイエスに付き従ったことへのリターンを求める心から来ています。
これは20章にも繰り返される議論(マタイ20・20〜)ですが、信仰とは、神に従うという対価を差し出す代わりに神から報酬を引き出すような取引ではありません。
だからこそイエスはここで、子どもにとって親の愛は無条件に与えられるもの、と捉えている子どもを立たせ、「自分を低くして、この子供のようになる人が……(4節)」と言うのです。
親が与える以上の愛は欲しがらず、ただ与えられたものをそのままに受け取っていく、子どもの素直さと謙虚さに立ち返るようにと弟子たちを戒めるのです。
また、そのような謙虚さを忘れた者は、その振る舞いによって周りの人々さえ罪に陥らせてしまうことがある、ということにも気をつけるように勧められています。
それは、神様にとってはすべての人々の一人ひとりが「百匹の羊のうち迷い出た一匹」であるからです。
神様はわたしという一人を大事にしてくださる、は意識しやすくとも、私の目の前にいる人も神様に大事にされているのだ、という意識をついつい忘れてしまう罪を私たちは持っています。
「迷いでた一匹の羊が、残された九十九匹よりも価値ある羊であったのか」とか、「自分が九十九匹のほうの一人であったのなら、羊飼いを失った九十九匹は狼に食べられてもよいのか」とか、そのように隣人と自分を比較し、神の前にどちらが上か下かと決めようとするその心が、既に罪であることを思わされます。
だからこそ、互いに神様に愛され赦されている存在であればこそ、過ちを犯している隣人に対しては、「二人だけのところで」という恥への配慮の上、戒めなさいと勧められます。
これは叱ると怒るの違いを意識すべきことでしょう。悪であればところ構わず批判し論破するべき、ということではなく、あくまで愛をもって、相手への配慮と尊重の上で、段階を踏んで忠告をする、ということなのです。
あくまでその人が過ちを悔い改め、神さまの前に喜ばれる救いを得るために、イエスは謙虚さとすべての人に等しい神様の愛の重要性を説いた上で、天の国(神さまのみ心に適った)人との関わりについて教えているのです。
罪の現れの一つとして、怒りがあります。
ペトロは必死にイエスの教えにおける隣人へのゆるしを実践しようとしていますが、「何回赦すべきでしょうか。七回までですか(21節)」と言っている時点で、「八回目は怒る」ということですから、ゆるしていないのです。
ゆるすという言葉は、「忘れる」「思い出さない」という意味も持つギリシャ語が使われています。しかし、怒りが大きければ大きいほど、その根源にある出来事の痛みは深いものですから、なかなかゆるすということは難しいことでしょう。
そのようなとき、イエスはここで、一生かかっても払いきれない借金を帳消しにしてもらった家来にたとえ、あなたはこれまでどれだけ神様にゆるされてきたのかということに目を向けるようにと勧めます。
怒りは六秒間しか保たれない感情である、と言われますが、私たちはこれまでの人生のすべての時間、どれだけ神様の心をないがしろにして生きてきたのでしょうか。
聖書の教えに「私にはできない」と感じるとき、私たちはそれだけ罪深いのです。
人のいのちを与えるのも取るのも自由にできる神様が、それでも自分勝手で罪深い私たちを罰せず、いのちを奪い取らず、生かし続けてくださっている。その憐れみと愛に目を向けるとき、私たちも少しずつ、ゆるしの心を学ばされるのではないでしょうか。