一日一章・マタイ福音書解説(第14章)


マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書14章

◆洗礼者ヨハネ、殺される
14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、
14:2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
14:3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
14:5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。
14:6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。
14:7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。
14:8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。
14:9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、
14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。
14:12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。
◆五千人に食べ物を与える
14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
◆湖の上を歩く
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
◆ゲネサレトで病人をいやす
14:34 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、
14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。


ちょこっと解説

洗礼者ヨハネの死がイエスに伝えられます。
ここでヘロデの言う「イエスはヨハネの生き返り」ということは全く的外れな想像にすぎませんが、この物語は、当時の人々の死生観を現わしている記事とも取れます。
つまり、死者の復活がありうると考える人々がいたということ、そしてその復活が奇跡的な力──神様の介入を伴うものとして解されていた、ということです。

ここでイエスは二つの奇跡を弟子たちの目の前で起こされます。
五つのパンと二匹の魚だけで五千人以上もの人々を満腹させた、という奇跡と、湖で逆風に漕ぎ悩む弟子たちの舟に向かって水の上を歩いて来られた、という奇跡です。

五つのパンと二匹の魚でそれだけの人数が満腹したということは、物理的にパンと魚を増やす奇跡が起きたのか、という視点は、あまり重要ではありません。
聖書はそのような再現性や整合性をチェックするような類の書物ではないからです。
ここでイエスは「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られ、そのパンを裂いたあとは「弟子たち」がパンを群衆たちに配ったということが注目すべきポイントです。
神様への感謝によってその奇跡が起こったということは、ここでイエスは神から恵みを受ける信仰者としての立場に立たれています。

そしてイエスから与えられたパンと魚が、普通の人間である弟子たちの手を通して人々と分かち合われたことによって、信じられないほど多くの人々を「満腹」させたのです。
この「満腹」と訳されている言葉は、「満たされる」という意味の言葉であるため、物理的に満腹したというだけではなく、もっと象徴的に、心が満たされるとも取れる言葉が使われています。
感謝の心をもって私たちが誰かと一つのものを分け合う時、それは一人で受けるよりもずっと心が満たされることが表されています。

空腹である時、私たちはついつい余裕をなくし、自分勝手な振る舞いをしたり、機嫌が悪くなったりするかもしれません。
ここでの群衆たちはそのような身体的な飢えを感じながらも、それでもイエスの言葉に聞きたい、心を満たしたいという欲求の方が強く、イエスのもとに留まっていました。
だからこそ、そのような人々に対してイエスは「深く憐れみ」をもって接したのです。
この「深い憐れみ」と訳されているギリシャ語は元々「はらわたがねじれるような痛みスプラングニゾマイ」を意味する言葉が使われていますから、それほどイエスが人々への深い共感と飢えの痛みをその身に感じてくださった、ということが表されています。
自分で自分をコントロールできなくなるような余裕のない私たちの心と体の飢えに対して、イエスだけは深くそこに寄り添われます。
そのみ言葉だけでなく、食卓さえも共にして、相手のすべてを一緒に満たそうとする信仰者としての模範を、ここでイエスは示されているのです。

そして湖の上を歩くイエスの姿には、イエス自身が神様ご自身であることが表されています。
古代において水の上を歩くという行為は、神様にしかできない行為と考えられていたからです。
弟子たちの船が逆風と荒波に悩まされている様は、人間の力ではどうしようもできない不条理、私たちの現実に起こる様々な困難のたとえとして受け取ることができます。
そこに神様が助けようとしてやってきたとしても、弟子たちがそうであったように、疑心暗鬼と不安の中にあると、その助け手さえも自分を脅かす「幽霊(26節)」に見間違えてしまうのです。

しかし、そこにイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいます。
そして、この世の荒波の中にある私たちがそのイエスだけを見つめて生きようとする時、人の常識ではありえない「水の上を歩く」ような一歩へと踏み出すことができるようになるのです。
それは、その前に起きた五千人以上もの人々を満たした奇跡のように、私たちが誰かへの深い共感と分かち合いによってもたらされる奇跡──共に生きる隣人を癒し、慰め、支え、満たすような、そんな深い愛と憐れみに満ちた関わりをもたらす一歩であるのです。

私たちが奇跡を起こされるのではありません。私たちを見つめ続け、その奇跡の器として用いてくださる神様がおられるのです。
イエスのことを見つめていても、すぐに周りの状況(強い風)に気を取られてしまう私たちを、何度でも「手を伸ばして捕まえ」てくださる、そして引き上げてくださる神様がおられることに、私たちの信頼と安心を委ねたいものです。

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