一日一章・マタイ福音書解説(第25章)


マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書25章本文

◆「十人のおとめ」のたとえ
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
◆「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
◆すべての民族を裁く
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


ちょこっと解説

世界の終わりがやってくる時にも惑わされず安心していなさい、と前章で呼びかけられたイエスは、その終末が来るときに私たちがどのような態度でそれを待つべきかを示しています。
「十人のおとめ」のたとえのなかでは、準備を怠ったおとめたちが、その場で主人にたとえられる神様がいざ来られたとき──つまり終末がきた瞬間に、それを迎えられなかったために、「わたしはお前たちを知らない」と天の国からばっさり切り捨てられる、というたとえ話になっています。
これは、神様が天の国に入れる人を選別をしたがっているのだから振り落とされるな、という警告なのではありません。
人は罪から逃れることはできません。わたしたちは誰しも、ついつい「このくらいでいいだろう」「ちょっとくらいいだろう」と自分を甘やかす方に向かっていってしまうものです。
しかしそのたった一回が、見えないうちに広がる腐敗のように、私たちの信仰全体を台無しにしてしまうのです。
喜びにあふれた「婚宴(22章)」に全ての人を迎えたいと願ってやまない神様だからこそ、いつでも「神様の前に立つ準備はできている」という心で日々を過ごすことの大切さを私たちに忘れてほしくないのです。「礼服(22・11)」のくだりにも表されていた通り、神様の救いはただ受け取って終わりではなく、それに対する私たちの具体的な応答がセットなのです。

そしてその応答とは何かについて、続くイエスの言葉に表されていきます。
「タラントン」は英語の「タレント」、つまり才能を意味する言葉のもとになったギリシャ語ですが、元々は神様から与えられた「賜物」をあらわす言葉です。
一人一人に神様から預かった賜物は違います。五タラントン、二タラントン、一タラントンと、人によって才能の豊かさや乏しさに目が向くかもしれませんが、このたとえ話で大事なことは、与えられた才能の大きさではありません。
大事なのはそれを活用するかどうかです。活用した先の二人には、主人にたとえられた神様は同じ言葉をかけているからです。
しかし、与えられていながら一切活用しなかった一タラントンの者は、それすらも奪われてしまうのです。
一タラントンは当時六千デナリオンに等しい額で、一デナリオンが一日の日当に等しいとされていましたから、一タラントンでもとんでもない額だということがわかります。
つまり、私たちに神様から与えられた才能はそれぞれ違うけれども、私たちにとっては役に立たない才能など一つもない、ということです。
あなたにふさわしい、もてあますほど豊かな賜物を、きっとあなたにも神様は与えてくださっている。きっとそれを活用してくれるだろうと神様は信頼して、それほど大きなタラントンを預けてくださっているのです。

そして、神様が再びやってくる時、そのタラントンをどう活用したのかが問われます。
天の国に入れられる右の人々と、永遠の火に焼かれる左の人々とに分ける裁きが行われる、とイエスは言います。
これは黙示録にも出てくる「最後の審判(黙20・12)」のことでしょう。ここで大事なのは、天の国と永遠の火のどちらに行くかは、「誰のための善行であったのか」に目が向けられています。
善い行いをすればそれでよい、ということではありません。
左側にいる人々へのやり取りからわかるように、滅びに定められた彼らは善行を怠ったわけではありません。
神様から救いにふさわしい人間として認められるという目的と栄誉を得るために、手ごろな相手を探して形だけの善い行いをした、ということが、神様の心には適わなかったとされているのです。

大事なことは、立派な、誰からも褒められるべき偉業を成し遂げる事ではありません。
「のどが渇いていた時に(35節)」、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる(マタイ10・42)」行為のような、何気ない、小さな、しかし目の前の人の心のその状況に深く寄り添い、必要な助けを差し出していくという愛こそが、天の国に迎え入れられるほど、神様に喜ばれることなのです。
小さく弱くされている人の多くは、社会の中で排除され、無視され、面倒がられ、避けられることが多い、という現実は、いつの時代でも同じです。
しかしその人の中にこそ神様がおられる、ということを教えることによって、イエスは、この世界の誰一人取り残さない、全ての人を愛し抜く神様の心に適った生き方へと私たちを導こうとされます。
あなたの周りに生きる「最も小さい者の一人」とは、いったい誰のことでしょうか。
それはあなたの嫌いな人かもしれない。あなたが蔑んでいる人かもしれません。
みんなが、その人を無視していい、ひどく扱っても構わないと思っている人かもしれません。
もしかしたら、あなたにとっての、あなた自身のことかもしれません。

あなたのタラントンを、その人のために使おう、と。
心と考えを尽くしてその人に寄り添う時。
あなたはその人の中に、きっとイエスを見出すことになるでしょう。

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