マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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自分のペースでお読みいただければ幸いです。
マタイ福音書4章
◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
◆ガリラヤで伝道を始める
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
◆四人の漁師を弟子にする
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
◆おびただしい病人をいやす
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
ちょこっと解説
イエスは「霊(マタイ4:1)」に導かれて荒野で荒野の誘惑を受けられます。
この霊とは、洗礼の際にイエスに降った「神の霊」であるはずです。つまり神様ご自身がイエスを荒野へと向かわせていくのです。
これは、キリスト者(クリスチャン)になった者が初めに受けるものでもあります。
信仰が与えられたばかりの、若々しく熱く燃えているときには、自分の罪をことさら深く受け止め自責に苛まれたり、現実と信仰との在り方の折り合い、自分の欲望との狭間で自らの「不信仰」に悩んだりすることがあるからです。
イエスはそのような悪魔の誘惑を、どのように退けられたのでしょうか。
それは、正しく理解した聖書の言葉(特に旧約聖書の律法・申命記からの引用が多い)によってでした。
悪魔の誘惑を読み解くと、ときには聖書の言葉を通して私たちを誘惑することさえあることがわかります(マタイ4:6)。
これは、自分勝手に自分に都合よく聖書の言葉を受け取ることへの戒めでもあります。
しかしそれでもイエスは聖書の言葉に常に立っていきました。
それは、自分の意見の支えとするではなく、むしろ聖書の言葉こそ柱とし、それにより頼む、ということをするのです。
自らの思いの中心、判断の基準を聖書の言葉に置くことこそ最も大事なことであり、自分が揺さぶられないようにしっかりと立つ土台としての「岩(マタイ7:25)」、身を寄せる「砦(詩18:3)」こそ、み言葉であるということの教えが、イエスの姿から見て取れるでしょう。
イエスは弟子を取られます。初めての弟子は漁師たちでした。
当時、水には悪魔が住むと考えられていましたから、魚を取る漁師たちは、その水に触れ、水に近い仕事をしていたために、汚れや差別の対象として見られることもあったようです。
そのような人々に関わること自体が神様に反すること、と思われていた中で、イエスはいの一番に彼らを弟子として、つまり神様の福音を伝える相手であり、またそれを他の人々に伝える役割を担う宣教者として選ばれたのです。
そして、彼らに「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけていかれました。
彼らの与えられていた賜物を、宣教者になってなお十分に用いるために、イエスはこのように言い、彼らの助けを求められたのです。
頼られることは誰にとっても嬉しいことですが、神様に見捨てられたと思っていた自分たちが、神様によって必要とされることの幸いがどれほど大きかったかを思わされます。
イエスは「光」、特に「陰の地」に差し込む光であると旧約聖書の預言は語ります(イザヤ9:1)。
私たちの心の暗いところには何があるのでしょうか。そこには罪があります。弱さがあるのです。
しかしイエスは罪を明るみに出して悔い改めさせ、誰にも見せられないような弱さに触れて温めてくださる慈愛に満ちた言葉として、私たちのもとに来られた救い主(メシア)であると言うことが、イエスの公生涯の始まりにまず示されているのです。
まさにイエスの働きが福音の告知といやし(マタイ4:23)によってまとめられていることと響き合っています。