マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書3章
◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
◆イエス、洗礼を受ける
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
ちょこっと解説
4節にある洗礼者ヨハネの風貌は、旧約聖書の預言者エリヤによく似ています。
エリヤは生きたまま天に連れて行かれたため、これは世の終わり(終末)に神様がこの世を救う時、エリヤもまた再来するとユダヤ人たちは信じていました(マラキ書3:23)。
つまり、ヨハネがエリヤの格好をしていたということをわざわざ書くことで「旧約聖書の時代に約束された神様の救いは近い」ということを伝え、だからこそ「一度きりの悔い改め」の洗礼をヨハネは人々に告げていったのです。
このようなヨハネのところに、ユダヤ中から人々がやってきた、という事実には、人々がそれだけ神様による「救い」を期待していたことがわかります。
この救いは、イエスの言葉では「元通りにする(新共同訳)/立て直す(フランシスコ会訳)」と表現されています。
つまり、ユダヤのある人々にとっては過去の栄光であったダビデ王時代のイスラエル王国の再建こそが救いであり、そのためにローマ帝国による圧政からの解放を求めていたことが透けて見えます。
事実、弟子たちもイエスにこのような軍事的な王としての救い主(メシア)を望んでいたようにも見えます(マタイ20:20~)。しかし、それはイエスが告げ知らせた救いとは違うものでした。
ヨハネのところに洗礼を受けに来た人々の中には、ファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる律法学者たちがいました。しかし、ヨハネは彼らにかなり厳しく悔い改めを勧めています(マタイ3:7~10)。
これは当時の律法学者と呼ばれる人々が律法遵守を重視するあまりに、本来律法が意図していたもの──すなわち神の愛と憐れみ──を失い、いかに彼らの信仰が形骸化していたかが表されているのです。
「良い実」についてはイエスも触れていますが(マタイ12:33)、これは信仰が目に見えないからです。
目に見える行為、言葉に信仰の「実」が表されるのです。ましてや、神の目には人間の目に映るよりも明らかであるでしょう。
イエスの洗礼は不可解な出来事のように見えます。
実際ヨハネも一度は「思いとどまらせようとして(マタイ3:14)」いるように、悔い改めるべき罪のないイエスがなぜ洗礼を受ける必要があったのでしょうか。
ここには二つの意図が考えられるでしょう。
一つは、イエスの洗礼の直前にユダヤの指導者たちの「悔い改めなさ」が提示されることによって、この洗礼が真に悔い改めの洗礼とされることが証しされているということです。
そしてもう一つは、今後洗礼を受ける者(全てのクリスチャンたち)が信仰者として歩みだす、これからの人生が「正しい」歩みとなっていくために、そこにイエスが共に立ち会ってくださり、その一歩を共に歩みだしてくださる、ということなのです。
イエスが洗礼を受けられたのは、イエスを信じ洗礼を受けて生きるすべての人のためでありました。
だからこそ天が裂けて響いた神様のみ声は、洗礼を受け、クリスチャンとして歩みだしていく一人ひとりにかけられた言葉としても響いているのです──「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(マタイ3:17)」