恋と愛の違い


彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

──マルコによる福音書12:28-31

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ある時、心療内科のカウンセラーに恋と愛の違いについて聞いたことがあります。するとこのように話してくれました。
「恋というのは自己愛が引き起こす勘違いなんです」と。
「自分に都合のよいことを偶然相手がしてくれた、それを『相手が自分を好きだからだ』と勘違いすることから恋が始まります。だから、相手が自分に都合よく動いてくれないと、とたんにその気持ちが冷めていくのです」
「しかし愛は違います。相手が自分に利益をもたらさなくても、都合のよいものを返してくれなくても、相手のためになることを続けるのです。相手のためになることを考え続ける努力、それが愛です」

私たちは恋と愛を、どのように捉えているでしょうか。
相手を好きでいる、という感情のグラデーションのなかで、好きになる、恋をする、愛するようになる、という、気持ちの強弱で捉えている人多いかもしれません。
しかし、実は愛は、そのような感情のグラデーションの外にあるものなのです。
気持ちだけでは実現できない、明確な努力が必要になるものだということを理解していないと、一生私たちは感情に振り回され、人間関係に振り回されることになるのです。

「ナルニア国物語」を書いたC.S.ルイスは、クリスチャンであり、キリスト教に関わる文章も多くあります。彼はキリスト教的な生き方について書いた著書『Christian Behavior』の中で、このように述べます。

「私たち全員に対するルールは非常にシンプルです。隣人を『愛して』いるかどうかなど気にして時間を無駄にしてはいけません。
そうである、、、、、かのように、、、、、振る舞いなさい。私たちがそうし始めると、偉大な秘密のひとつを見つけることになります。誰かを愛しているかのように振る舞っていれば、そのうちにその人を愛するようになるのです。」

愛は具体的な行動であり、それは私たちの努力によって起こされる振る舞いであるというのです。
しかも、その行動を起こすために感情が必要なのではなく、逆に行動が感情を引き連れてやってくるのです。

私たちにも、きっと大切にしたいと思う、愛すべき人がいることでしょう。
親しい友人や、お付き合いをしている相手。あるいは親や兄弟、お世話になっている人が思い浮かぶ人がいるかもしれません。
私たちはその人と、これからも長く関わり続けたいと思うでしょう。
その願いを叶えるためには、あなたの努力が必要なのです。
愛するという努力です。相手を好きでいる努力ではありません。それは必ずしも相手に従うことでもありません。
相手を大切に思い、相手からの見返りを求めるのではなく、相手のためになることを考え、行動することなのです。

私たちは、大切な人に、そのような愛を向けることができているでしょうか。
私には出来ない、どうすればいいかわからないという人もいるでしょう。
そのようなあなたのために、イエスは隣人への愛を「神様を愛すること」に結びつけたのです。
それは、神様が望んでおられること、聖書の言葉が勧めていることを、形だけでもやってみることを勧めていったのです。

愛することは、努力を伴う行為です。
そして神様は、誰よりもその努力と犠牲を払って、あなたを愛しておられることが、聖書に語られています。
どうかあなたが誰かを愛する時には、そのことを思い起こしてください。
そして私たちもイエスのように、誰かを本当に愛する者になっていきましょう。

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