キリスト教一問一答・その4【ブラキャニ】


目次

Black Cat Carnival(ブラックキャット・カーニバル)の「キリスト教・聖書の話」ルームで募集した質問をまとめていきます。
今回は久しぶりに第4回!
第1回と前回・第3回は↓こちら↓から。

それではどうぞ!

・牧師にゃんは12使徒の中で誰が一番好きですかにゃ?

そうですね、一番となると、やっぱりシモン・ペトロですね。

「あなたのためなら命を捨てます」と豪語したにも関わらず、
いざイエスが逮捕されると3度もイエスを知らないと言い、
それだけ明確にイエスを裏切った弱い弟子なのです。

それでもイエスは「あなたの上に教会を立てる」(マタイ16:18)と言ってくださったり、
最後の晩餐のときには3度の否定をすることを見抜いてなお「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と
ペトロの信仰のために祈ってくださったというエピソードが一番大好きです。

神様は弱い者のために祈り、助け支えてくださるお方だからこそ、
様々な弱さや過ちを抱えるペトロのような弟子でも信仰に立たされていくことができるのだなと、
彼の姿を見るたびに励まされるような気持ちになりますね。

・怒り、手放せなくて困っています。古来から人間はそうなんですね。ミサに出たら何か変わるのかな…

ミサに出ても、キリスト教をどれだけ信じても、それだけで怒りが綺麗さっぱりなくなるわけではないと思います。
けれどもあなたが「困っている」「手放したい」と心から思っていることを
神様は必ず知っておられて、どうにかしてあげたい、と思っていてくださるはずです。

だからこそイエスはこの世に来られ、
怒りから抜け出せなかったファリサイ派や人々の罪を
十字架において一手に引き受けて赦してくださったのだと思います。

以前、賀来周一という牧師は、「少しずつゆるす」ことを一つの方法として教えておられました。

一気に全部ゆるすことはできません。
でも大根を輪切りにするように、許せない出来事をいくつかの場面にわけるのです。
それらの一つ一つの場面で、その時に自分はどうしたか、相手はどうしたかを検証する。
そこにはどういう思いが私に、相手にあったのか。
その作業をすることによって、少しずつ人をゆるすことができるようになると、教えておられました。

本来「赦すこと」は、神様の領域のことがらです。
神様にすべてをゆだねることも確かなことです。
でもなかなかそうは出来ないのが人間の性でありますし、
そのような私たちを一方的に断罪するのでなく
赦しをもって私たちを見つめじっと待っていてくださるお方こそ、
イエス・キリストという神様であったのだと思います。

私たちが怒りを手放し、誰かを許せるようになることを
神様の方が私たちのことを信じてくださっている。
ペトロにそうしたように、祈ってくださっている。
それを救いとして信じることも信仰だと思います。

ぜひそのような方からの愛にあふれた言葉として
聖書の言葉に耳を傾け、
ミサという空間を神様の懐と思って
自分を預けるようにその時間に浸っていただく
あなたがそのような時間を持てるようにと私も祈っています。

・地元を離れてから少し経ち、友人が減ったと感じて、これが孤独か…となっている最中なのですが、誰かに見守ってもらえていると信じる対象が存在してくれるというのはなんだか安心できる気がします。ただそこにいてくれればいい…というような救われ方も…アリですかね?🐈

もちろん、アリです。
一人一人にとって、どのような形で救いが与えられるかは違いますから
それが神様との出会いとなって心の平安につながるのなら
一つの救いと言ってよいことだと思います。

旧約聖書によるとイスラエルの人々は
パレスチナとエジプトを時代によって行き来しています。
ですから彼らの神(聖書が教える神)とは
その土地(場所)にいる神ではなく
人と共に生きる神様であることがわかります。
この伝統からイエス・キリストは
旧約聖書では「インマヌエル」──「神は我々と共におられる」という
意味の名を冠する神様(救い主)として来られたと言うのです。

そのイエスが復活して再び弟子たちから離れ、天に昇っていかれるという
マタイ福音書のラストシーンでは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)とイエスは言ってくださっています。

親しい友人と離れてしまうことは大人になっても寂しいものです。
しかし私たちがどこにいて、どんな状況の中にあっても
決して見捨てず、見守り続け、祈る言葉を聞き逃しはしない
そんな神様がいてくださることを私たちの心の支えに出来るのなら
私たちの心は安定することでしょうし、
きっと新しい出会いも喜んで踏み出していくことができるだろうと思います。
そしてきっとそのように笑顔で生きるあなたを、神様も喜んでくださるだろうと思います。
神様もまた、あなたの友となってくださるお方であるからです。

「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。
……わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」
(ヨハネ福音書15:15)

・先日、駅前で聖書を配っている方々をみかけました。こちらのルームを見ているので興味がある反面、怪しい集団なのではないかと疑う気持ちもあり、結局良くも見ず素通りしてしまったのですが…聖書を配布するというのは普通にあることなのでしょうか?

そうですね。普通にあります。
ホテルなどにおいてある聖書は以前は持ち帰っても良いですよ、
というところもありました。(今は違うかもしれません)

聖書を配布している団体の中でいちばん有名なのは
「ギデオン協会」です。
以前は学校などに一人一冊赤い表紙の新約聖書を配布をしたりしていました。
今も各所で無料配布していますが、
新興宗教の団体も同じようにホイホイ配布しているので紛らわしいですよね。

一番の見分け方は、
配布された聖書の「翻訳名」を見ることだと思います。
ギデオン協会の聖書はカトリック教会を始めとした
ちゃんとしたキリスト教会が使用している「新共同訳」聖書が
基本となっていると思います。
他にも「口語訳」や「新改訳」一番新しい「協会共同訳」などが表紙や背表紙に書いてあれば、
問題なく受け取って読んでもらって大丈夫です。

それ以外、たとえば「新世界訳」等、新興宗教が独自に訳し、
本文がカルトに都合よく変更されて訳されている聖書があるので、
受け取った聖書がそれの場合にはそのまま廃棄していただくのがよいでしょう。

もし捨てるのを躊躇われる場合には教会の方に持ってきていただければ
多分受け取って代わりに廃棄していただけると思います。

・神様を信仰するのを疑った時、どうしてますか

いい質問をありがとうございます。
聖書を読むと、むしろ疑うことも信仰の一部分として描かれています。

イエスが十字架の死から復活した時、トマスという弟子は
周りの弟子たちから話を聞いても信じることができず、
「この目で見て、指を傷跡に入れてみなければ信じられない!」
と疑っていました。

しかし復活したイエスがトマスのために現れて、
「私の手の穴に指を入れ、脇腹の傷にも手を入れてみなさい。信じない者ではなく信じる者になりなさい」と
言ってくださいました。
それを聞いたトマスはすぐさま信じた、と言う話があります。(ヨハネ20:27)

イエスが十字架にかかって死んだ時、
手に釘を打たれて穴が開きました。
また、確実に死んだか確かめるため、
脇腹から心臓を貫かれていました。
その穴に、イエスが自ら「手を入れてみなさい」と言われたのは、
もう一度あの死の苦しみを耐えてでもトマスに信じてほしいという
イエスの思いが込められています。
そう言ってくださったことから、
トマス自身が、いかに自分の決めつけに囚われ、意固地になっていたかを
気付かされたのだと思います。

私たちが何かを信じるとき、
それが枷となったり信じたくても信じられなくて
挫折を味わうことがあるかもしれません。
でも信じることの中には疑ってもよい、という赦しが
あってしかるべきだと思います。
なぜなら疑うことがなければ盲信になっても気付けないからです。

聖書が語る神様とは、
信じられない、疑うことさえも、
より深く信じるために必要な過程として与えてくれる
そういう神様であると思います。
信仰が揺さぶられる時にはイエスと弟子たちの物語から
そのことをいつも思い起こしています。

・最近「クェーカー」という宗派を知りました。それなりに歴史のある一派のようですが、キリスト教においてはどういう立ち位置と理解すれば良いのか知りたいです

質問ありがとうございます。
クェーカーという教派について、
自分もあまり詳しくないので少し神学辞典などで調べていました。

プロテスタント教会の一つですが、
多くの教会とはかなり雰囲気が違う印象を持つ教派かもしれません。

教会に集まって礼拝をする──つまり、そこで定められた流れ(式次第/式文)に沿って礼拝が行われたり、
聖餐(パンと葡萄酒をいただく儀式)が行われることがキリスト教会では一般的ですが、
クェーカーではそれらを重要視しないようです。
彼らにとって大事なのは、簡単に言えば
イエス・キリストというお方の「心(精神)」に皆が一致していく、ということに重きが置かれているようです。

そのため、会議の決定では「全員が賛成」になるまでは決定しませんし、
平和主義的で、いち早く女性の発言権を取り入れた集まりでもあったとされています。

キリスト教会はすべて社会奉仕活動を勧めるものですが、
多くのプロテスタント教会はその土台としての教会生活を大事にします。
一方、クェーカーは社会への奉仕活動の方に精力的に取り組む教派のようです。

ただ、1600年代からあるキリスト教派で、カルト・新興宗教的な教派ではないので
ちゃんとしたプロテスタント教会のひとつ、と捉えて差し支えないかなと思います。

・あまりにもわかりやすい解説で勉強になります。私もお聞きしたいのですが、福音派についてお教えください。プロテスタントの中のひとつという理解でよいのでしょうか。

「福音派」というワードが指すものは、日本(orヨーロッパ)とアメリカでは違うものを指すイメージです。

元々福音派とは「福音主義」とも言われ、
16世紀の宗教改革時にルターが「聖書(福音)に立ち返れ」と呼びかけたことから生まれた、
プロテスタント教会の別名総称として使われてきた名称でした。
今も日本で福音派、と言うとペンテコステ派・バプテストなど
あるいは規模の小さい教派・単立の教会を指す言葉として使われている印象です。

しかしアメリカでは「福音派」が一つの大きな教派のようなものとして捉えられることがあります。
(実際にはたくさんの教派の集まりですが、アメリカでは政治に影響のある勢力と見られています)
ドナルド・トランプ氏が1度目に大統領に選出されたときの副大統領マイク・ペンス氏が福音派と話題になりましたし、
今も福音派はトランプ大統領支持派が結構多いと聞きます。

彼らは聖書を文字通りに信じることを重要視し、
自分たちが霊的/精神的に新しくなること(ボーン・アゲイン)を経験することを大事にしているので、
目の前の現実を突破する新しいビジョン(新しいアメリカ、とか)を求める人々にとっては、
現実を動かしていく原動力としてもかなり大きな影響力を持っているのではないかなと思います。

文字通りに聖書を読むことは原理主義的に近づいてしまったり
何千年も前の記述を文脈を無視して今の私達に都合よく捉えてしまったり
最悪、行為を正当化するための根拠として利用するような危険性を
孕んでいますから、それは注意する必要がある捉え方だと思います。

ルターが始めた福音主義のように、
いつでも自分の受け取り方を自己点検する(絶えざる悔い改め)
ことが共にあって初めて、福音はすべての人にとっての福音(良い知らせ)になるのかな、
と個人的には思うのです。

・いつも興味深く拝見しています。にも関わらずとても初歩的かつ失礼な物言いになって申し訳ないのですが…旧約と新約で神が同一であると思えず、いまひとつピンときません。新約だけなら良かったのにな…と思ってしまうのです。不躾ですが、お答えいただけますと幸いです。

わかります(力強い同意)。
多分ほとんどの牧師たちはこれについてどう答えるか、本当に悩んでいると思います。
旧約の神と新約のイエスが同一の神様で、唯一神ですというのは本当に人間の理解する範疇を超えていますし、しかもイエスは「神の御子」とも呼ばれていて、神の子だったら神とは別の存在なのでは……と思えても仕方ないと思います。
これに「聖霊なる神」を加えて「唯一にして三位一体の神です」とか言われてしまうと、余計に混乱しますよね。

一言で最終的な答えをまとめると、
「人間が知れる範囲で理解しようとすると、”そういうものとして信じる”しかない」だと思います。

もちろん、様々な説明はできます。めちゃくちゃ長いので時間がある時に読んでいただければ幸いです。

例えば、「イエスは旧約の神の別の顔(ペルソナ)である」という考え方です。
私たちは一人の人間ですが、家庭では父親、仕事場では会社員……といったような、様々な顔(ペルソナ)を使い分けています。
父親として関わるときと、会社員として働いているときとでは、人との接し方が全く変わりますよね。それは神様も同じだ、という考え方です。

神様の目的は一貫しています。「人を救いたい」。
これは人のなかに神様の望む生き方から外れてしまう原因(罪)があるからです。
旧約の神様は、どうにかして天から働きかけて人々を罪に陥らないようにと呼びかけたり働きかけたりします。神様に正しい人を立てて人々を導いてもらったりします。そして繰り返し罪を犯す人々を、どうにかして悔い改めさせようといろんなことをします。
しかしそれ以上に人が罪に陥り、自分のことしか考えない、自分さえよければいいという欲のままに生きていってしまうことを止められない現実があります。これが、旧約聖書のメッセージです。

そんな人間の苦しい現実に、神様ご自身が降りてきて、共に生きてくださった、それが人間イエスという別のペルソナを選ばれた神様だった、というわけです。
人が自ら間違い、人が自ら誰かとの関係性を崩していく、そんな罪を抱えていること自体が、罰のようなものです。
仲良くしたいのに傷つけてしまう、自分を上げるために誰かを下に見たり、支配しようとしてしまう、あるいはそれを受けて理不尽に傷ついていく……そんな悲しくむなしい関係性に陥らざるを得ないそんな人間の現実に、神様は同じ人間として、心から寄り添おうとされた。神様の人間に対する深い愛情が「人間になる神様」という──バカバカしくて愚かで信じられない(Iコリント1:21-25)、でも一番私たちにとって最も身近な心を通わせられる存在となる──人間としてのペルソナを神が選ばれたということなのだと思います。

また、イエスの「変容」の出来事(マタイ17章)で、イエスの隣に旧約聖書を代表するモーセとエリヤの2名が立ち、神様ご自身が「これ(イエス)に聴け」と語ります(17:5)。
この出来事の前後からイエスは十字架にかけられて殺される、ということを予告しだし、弟子たちはその真意が理解できずに諌めたり黙ったり裏切ったりしていきます。
しかしこの出来事こそ、イエスの生涯においてターニングポイントとなっている出来事であり、これまでは人々に都合のよい奇跡や死者の復活などを表していたイエスが、人々にとって理解しづらいこと(十字架の死など)を話し始める境目ともなっています。
だからこそ、旧約聖書の象徴の2名をイエスの隣に置き、神様ご自身が「(今からあなたたちにはあまり理解が及ばないようなことが起こるかもしれないけど)これに聴け(=信じてついていきなさい)」という念押しの呼びかけをする、というシーンでもあるのです。
こうして旧約聖書の神様の教えと、イエスの教えが地続きであることが神様自身から明言されていると言えます。

「でも神様とイエスが同時に存在してるじゃん!」と思うかもしれません。
しかしそもそも旧約聖書で神様がモーセに自己紹介をする時「わたしはある、というものである(出エジプト3:14)」と語っています。
この、ある、と訳されている言葉は「be, become」を意味する言葉の進行形にとれるヘブライ語で書かれています。そのため「存在し続け、この世界のすべてに働き続ける」神様だという自己紹介です。つまり、神様は同時にすべてのものに遍在できるということです。

加えて、人の罪が赦されるのは、神ご自身にしかできないことだとされていました。しかし、無実のイエスが人の罪を赦していったり(マタイ9:2他)、ついには十字架においてすべての人(創世記のアダムまで遡って未来の人間まで)の罪を赦されるということは、神にしか出来ないことだ、と受け取られていったのです。

まだまだ色々と言えることはあるのですが、既にかなりの長文になっているので一旦ここまでにしておきたいと思います。
ともあれ、「色々と理屈で説明はできるが、人知を超えた神様がなさることなので人間の論理では推測の域を出ず、イエスは人間であり、同時に神であふとしか考えることはできない」という決定を当時の初期キリスト教会が会議をして決めて、それが2000年以上キリスト教会の正当な信仰として認められてきた、というのが、現実なんですね。

・お祈りって、ただ普通に神様…って心の中で祈るだけでいいにゃ……?

もちろんです!
祈りは「神様との対話」と言われることもあります。
神様は私たちの心の奥底までご存じです。
それでも私たちの願いをすべて自動で聞き取り、祈らずとも神様が動いてくれる、というカタチではなくて、
私たちが求めているものを「言葉にする」という道を「祈り」という方法として教えてくださっているところに意味があるからです。

心の中でも、口に出して祈っても、どちらにせよ「言葉にする」ことが大事なのだと思います。
心の中がめちゃくちゃになって言葉にならないなら、口に出してみるとだんだんとそれが整理されていくということもありますし、それでも言葉にならない、うめきしか出てこないという時もあると思います。
でも、それでもよいのです。

あるいは神様に「お手紙」を書く、という祈りの手法もあると思います。
実際に誰かにお手紙をだすように、便箋に書いていく。そうやって書いた祈りの手紙を、家の中のどこか(静かに祈れる場所)に貼っておくと良いでしょう。
自分がいつ何を考え、神様に祈ったかという記録が残っていきますから、継続して祈り続ける必要がある内容であれば、より効果的かもしれません。

どちらにせよ、その心のありのままの状態を神様にそのまま差し出していく、ということこそが祈りです。
そのためには必ずしも口に出す必要はありません。
自由に、いつでもどこでも、祈ってみてください。

・ぬしさんはどうして 牧師になろうと思ったのにゃ?すごく 特殊で精神的にも色々 きつそうな仕事にゃから興味あるにゃ

最初から将来の職業として牧師になろうと決めていたわけではありませんでした。
子どもの頃から教会に通っていた、ということもありますが、たまたま高校生の時に推薦がもらえて入学できた大学がキリスト教主義の大学の神学部だったということもあって、「この先は牧師になるのかなあ、キリスト教のことは学んでいても苦ではないし」とぼんやり考えていました。
しかし大学で聖書学についての授業を受けた時、教授が聖書を手にとって「これは人間が書いた書物です」と言われたことに大きなショックを受け、信仰を一度失いました。
私が信じていた神様とはなんだったのか、と聖書の言葉を信じられなくなったのです。
そのまま4年、教会からも離れました。
牧師になるという将来の目標がなくなったので、別の進路として聖書科の教師を目指すことにしました。

教育実習を終えて、教員免許も取れましたが、残念ながら就職先(学校)は見つかりませんでした。
大学の教授は「大学院にいたら、学校から声がかかるから、優先的に就職先を紹介できることもあるよ」と言われたので、大学院に進むことになりました。
するとそこに、4年以上同じ大学に通っているのに一度も出会わなかったルーテル教会の信徒さんと出会いました。
その人はわたしと会うなり、「あなたのことを、ずっと探していたのよ」と言われました。

その言葉を聞いた時、わたしは、これは神さまの言葉だ、と思ったのです。
何年も教会に通っていなかったし、信仰も神さまという存在も見失っていたわたしの手を、
それでも神さまは掴んでいてくださった、と感じられた時、
「もう神さまにはかなわない、これからの人生は神さまのために使おう」と決めたのです。

もちろん、現実的に仕事はとても忙しいですし、大変なこともたくさんあります。
でも、お金を稼ぐために選んだ仕事ではありませんし、年々「聖書ってすごいなあ」と感動することばかりです。
古い言い方かもしれませんが、「やりがい」がこれほどある仕事はないと思いますし、
しんどいなあ、きついなあと思うことがあっても、その根底で「キリスト教はおもしろい、仕事(メッセージ作りや聖書の授業をすること)はやっぱり楽しい」がなくなることはありません。
だから、本当の意味で神さまは私に「天職」を与えてくださったなと今では思っています。

・にゃーは今教会に通ってるけど、信徒じゃないにゃ。神様に毎日お祈りするけど、信じきれないのにゃ。クリスチャンはみんな幸せそうで憧れるけど、自分が神様のことを信じられる気がしないのにゃ。こんなにゃーでも教会にいていいにゃ?いつか信じられるかにゃ?

信じるということは、私たちの努力だけで手に入れられるものではない、とキリスト教では教えます。
またルーテル教会では、信仰は「神様から与えられる恵み」と捉えています。
信じられる気がしない、そんなあなたこそ、神様を感じられる場所に最も近くいて欲しいのです。

神様の働きというのは、聖書に描かれているような目を見張る奇跡や、大きな出来事としていつも起こっているわけではないかもしれません。
しかし、私たちの思いもよらぬ出来事が起きたり、人と人とが繋がったりする、それを「偶然」と受け取るか、それとも「何か意味がある」「神様がそうされた」と受け取るのかで、世界が全く違って見えてくると思います。

自分がちょっと困っている時に「大丈夫ですか?」と声をかけてもらった、そんな何気ない出来事にさえ、神様は働いてくださっていると私は思っています。
基本的に今の時代、人は他人に無関心です(悲しい時代です)。
しかしそんな罪深い時代だからこそ、何気ない優しさや配慮が身に沁みるということもあるでしょう。
それは本来、神様が聖書の言葉を通して、全ての人に望まれているかかわりです。
だからこそ、その出来事を通して私たちが感謝をし、私たちも誰かにそのような優しさを手渡していけるようにと、神様はそっと背中を押してくれているようにも思うのです。
そのように世界を見れた時、もうそこには立派な信仰が与えられている、と言ってもよいのではないでしょうか。

信仰があるのか、それともないのかというのは、何かクリアする基準があるわけではありませんし、周りの人と比較して評価されるようなものでもありません。
信仰の有無なんてものは、神様にしか見えないものだからです。
だからこそ、私たちはただ、神様がおられて、私たちのために見えないところで働いておられることを信頼する、それだけで良いのかもしれません。
そのような信頼があるからこそ、私たちはいつでも祈ることができるし、身の回りの些細なことにさえ神様の働きを見出すことができるようになるし、感謝と喜びの中に過ごすことができるようになると思います。それが、信仰というものではないかなと私は思っています。

・(同一質問者による続き)回答ありがとうにゃ🐱にゃーは困ってる人を探して助けるのが趣味なのにゃ。それも神様がそうさせてくれてるのかにゃ?信じたい気持ちは山々だし、神様にお祈りすると全て上手くいく気がしてくるにゃ。でも周りの信徒を見てるとこの程度で洗礼を受けてはいけないのかなって思うにゃ。洗礼を受けるタイミングってどう判断すればいいにゃ?

洗礼を受けるタイミングというのは、どんな理由があろうとも、「洗礼を受けたい」と思った瞬間が来たら、いつでも受けるための準備を始めてよいと思います。

教会には「洗礼を受けるにはまだ私はふさわしくない」と仰られる方が時々います。
しかし、周りの人と比べて自分は…、とためらったり、自分の中でもっと習熟しなければ、キリスト教の教えを理解し尽くさなければ、信仰が深まらなければ…と、洗礼を受けるための合格ラインのようなものを引いて、洗礼を受けることをためらってしまうのは、実は私たち自身なのかもしれません。
洗礼は神様からの恵みであり、神様からの救いを受け入れたという証であり、そして「これからの生涯の歩みを神様と一緒に生きていきます」という約束ですから、そこに必要なのは一人一人の信仰の告白だけ、と私は思うからです。

神様はただ、「あなたと一緒に生きていきたいんだ、私と手をつないでほしいんだ」と手を差し伸べてくださっている。
私たちがどのような人間でもかまわない、と言ってくださっている。
そのためにイエス・キリストとして命を捧げる事さえ惜しまなかったからです。
だから私たちは、ただ感謝して、そのような神様の手を取るだけでよいのだと思います。
そして聖書もこのように言うからです。
「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Iコリント12:3)」

洗礼や信仰は、あなたと神様との関係だけに、目を向けましょう。
周りの人は関係ありません。
あなたが神様のことをどう思っているのか、それだけが、神様にとって重要なことだからです。

きっと何度も質問されてると思うのですが、自然災害や戦争などの理不尽な出来事がふりかかることについて、キリスト教的にはどのように考えられているのでしょうか?お時間あればお聞きしたいですにゃ😺

自然災害に当たるもの、たとえば地震などは、元々自然のサイクルの中で必ず起こるものです。
地震はプレートが動くことで起こるものですが、常に新しく造られ循環しているプレートがもし動かなくなったなら、何万年単位でプレートが劣化し、地面の底から崩壊し、この星自体が生物が住めなくなるでしょう。
雨も水が循環するためのサイクルの一つです。適度な量の雨は理不尽な出来事と捉えられないのに、人間にとって「大雨」とみなされた時、「災害」と言われて忌避されるものになります。
こう考えると、本来世界全体は一定のサイクルで動いているのに、それを人間が自分の住みやすいように世界を造り変えようとして、そうはできない部分に「理不尽だ!大災害だ!」と怒っている、何とも自分本位な捉え方に見えてくるように思います。
ですから、大災害に対して「なぜ神はこんなひどいことをなさるのか」という文句は、そもそも人が神様のようにこの世界を支配しようとして、支配しきれないことに対して文句を言っているような傲慢な振る舞いなのだと思います。
しかしそういう人間たちに対して、神様は「自業自得」と見捨ててはいません。
自然のサイクルを止めるのではなく、そこで被害に遭った一人一人が、神様への信仰によって慰められ、支えられ、また立ち上がっていくために、聖書の言葉を通して語り掛けておられる、という考え方です。

戦争も同じです。人が人を傷つけ、自分だけの利益を追求する行為は罪(神様の心から的外れなこと)の極みです。
戦争を見ると「どちらが絶対的に悪い」とは断ずることができないものばかりです。
傷つけられたからこちらも傷つけにいく。それは人が好んで苦しい方向へと向かっている罪であって、どれだけ悪人だろうと、人を傷つける事は正義にはなりません。
悪は神様が必ず罰してくださる。しかしそれは、虐げられている側の人間がスッキリするために起こるのではありません。自分の目の前で神の罰を望むこと自体が、神様を自分の支配下に置こうとする罪なのです。
こうやって人間の願いや人間の視点を取っ払っていくと、だんだんと人間が憐れな生き物に見えてきます。
同時に、それでも神様はそんな人間であっても愛し、赦しておられます。
それは、その愛と赦しによって、人が自ら悔い改め、自分も周りも平和に生きていくための知恵を神様に求めるようにと願っておられるからなのです。

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