一日一章・マタイ福音書解説(第26章)


マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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マタイ福音書26章本文

◆イエスを殺す計略
26:1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
26:4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
◆ベタニアで香油を注がれる
26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
◆ユダ、裏切りを企てる
26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
◆過越の食事をする
26:17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
26:18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
26:19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
26:20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
26:22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
◆主の晩餐
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
◆ペトロの離反を予告する
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
◆ゲツセマネで祈る
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
◆裏切られ、逮捕される
26:47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
26:54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
26:55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
26:56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
◆最高法院で裁判を受ける
26:57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
26:58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
26:59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
26:60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
26:61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
26:62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」
26:65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。
26:66 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
26:67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、
26:68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
◆ペトロ、イエスを知らないと言う
26:69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
26:70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
26:71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
26:72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
26:73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。


ちょこっと解説

イエスの再度の受難予告によって、十字架の出来事が始まります。
過越祭というのは旧約聖書の出エジプト記の物語の時代に定められたユダヤ人にとって最も大きなお祭りです。
ユダヤ人たちがエジプトで奴隷となっていた頃、神はモーセをエジプト脱出のリーダーとして遣わし、ユダヤ人たちをエジプトから神が約束された地であるカナン(現在のパレスチナ)の地へと導きだす、という出来事があります。
その脱出を記念し、神によって救い出された民であることを後代に伝える「過ぎ越しの食事」を毎年お祭りとして定めたのが、過越祭です。
この「過ぎ越し」とは、ユダヤ人を手放そうとしないエジプト王ファラオに対し、神様は下っていってエジプト中の初子(長男)の魂を奪うという災いを起こすのですが、モーセを通して神様のお告げを聞いていたユダヤ人たちは、言われた通りに家の鴨居に子羊の血を塗ることで、裁きの神様が「過ぎ越し(通り過ぎ)」てくださった、ということからきています。

そのような解放の喜びに満ちた祭りの時の始まりに「過ぎ越しの食事」を行い、それから一週間かけて「除酵祭」が行われます。
それら全体が「過越の祝い」として行われていくのですが、イエスはそのような祝いの時、人々が神様によって解放させられた救いを思い起こす時の始まりに、裏切られ、逮捕され、一方的な裁判によって死刑とされていくのです。
ここに、人々の罪が表出する一方で、それでも人を救おうとされる神様の計画が、旧約聖書の出エジプトの物語と重ねられながら進んでいくのです。

ここで、ふたりの裏切り者について福音書は書き記しています。
一人はイエスを祭司長たちに売り渡したイスカリオテのユダ、そしてイエスの弟子であることを否認したシモン・ペトロです。
イエスは弟子たちが自分を裏切ることを知っていました。それを過越の食事の中で言及されます。
ここでユダがイエスを裏切ることに対して、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった(24節)」とまで言われていることから、ユダがイエスを売り飛ばしたという罪は、その命では償いようがないほど深かった、と捉えられやすいかもしれません。
しかしよく読むと、イエスはユダに「あなたが裏切ったから私は十字架にかかって死ぬのだ」とは言っていないのです。「聖書に書いてあるあるとおりに、去っていく(24節)」、と言うのです。
さらに、ゲツセマネの園でイエスを捕まえに来た人々と共にいたユダに対しても、イエスは「友よ」と呼びかけています。
このことから、イエスはユダを「この世に存在するべきではない極悪人」と見ていたのではないことがわかります。
「今後何千年も、『神を裏切り、十字架に追いやった罪深い弟子』と罵られる」苦しさを抱えるなら、いっそ生まれてこないほうが彼にとって幸せであったかもしれないと、イエスは裏切り者のユダにさえ深い寄り添いをもって、言葉をかけておられたと解することもできるでしょう。

イエスは逮捕される前、ゲツセマネの園というところで必死に祈ります。
弟子たちは「目を覚ましていなさい」と言われながらも眠ってしまいます。
それは、苦しむ人を前にしてなお自分のことを優先してしまう人間の弱さを表しています。
しかしイエスは、それでもそばにいてほしい、と弟子たちに求めておられたのです。それは、人として生きたイエスという側面が垣間見られるシーンでもあります。

人間イエスは、ご自分が十字架にかかることでどのような救いがもたらされるのかという神の計画を、きっと知っていたはずです。
それでも二つ返事でその苦しみを引き受けてはいません。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39節)」とあるように、できることなら死にたくなかったし、痛めつけられ、侮辱され、すべての人から見捨てられるという立場になどなりたくなかったのです。
それでもイエスは「私の願いどおりでなく、御心のままに」と続けて祈ります。
神の子であろうとも、自分の思い通りにこの世界を動かすことはしてはならないことをよくわかっていました。それこそが人の罪であり、その罪をすべて背負っていくために、彼はこの世に来られたからでした。
いやだけど、しなければならない。私たちの眼の前にも、そのようなものばかりが溢れています。その素直な気持ちを、イエスはまっすぐ神様に打ち明けたのでした。そうしてイエスは、たとえ自分の思い通りに杯が取り去られなくとも、「立て、行こう、、、 。(46節)」という能動的な表現へと言葉を変えて、現実へと立ち向かっていくのです。

弟子ペトロは、逮捕されて引かれていくイエスについて行くことが出来ませんでした。
二人の道が分かたれてしまった中庭で、彼は試練を受けるのです。「あなたはイエスの仲間でしょう」と言われ、彼は三度も、自分の保身のために否定し、イエスを裏切ってしまうのです。
最後の晩餐のときには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません(35節)」と言った同じ口で、「呪いの言葉さえ口にしながら(74節)」。
ユダとペトロとの大きな違いは、ペトロがこの裏切りを後悔し、それでも自分で自分を裁くことはなかった、ということです。

ユダもまた裏切りによって手に入れた銀貨三十枚を返金し、イエスを釈放してもらおうと願いますが(27・4)、受け入れられず、自死を選んでいきます。
つまり彼は自分の罪を自分でさばいてしまったのです。
あれだけイエスが、裏切り者だとわかっていてなお「友よ」と呼びかけてくださった言葉を彼は思い出すことがなかったかのように、「決してゆるしてはもらえない」と自分で決めつけてしまったのです。

取り返しのつかない過ちを犯してしまうことは、誰にでもあります。それが自分の些細な行動から、思いもよらない結果として引き起こされることも。
それでもそこで、私たちが隣人に誠実に謝罪をし、償おうとすることなしには、ゆるしへの道は本来開かれないのです。
そのことをよくわかっていたからこそ、神様はそのゆるしを、悔い改める前のすべての人々に先んじて示してくださったのです。
それは、誰一人、ユダのように自分で自分を裁くことなく、悔い改めへと向かっていけるようにするためでした。
そしてその愛は、あの最後の晩餐のときから、イエスを裏切ったすべての弟子たちをはじめとして──この世界のすべての人に差し出されているのです。

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