神様、いつも一緒にいてください


創世記 1:1-2:4a

◆天地の創造
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
2:4 これが天地創造の由来である。

コリントの信徒への手紙二 13:11-13

13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
13:12 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

マタイによる福音書28:16-20

◆弟子たちを派遣する
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

──コリントの信徒への手紙二 13:13

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今日は教会の暦では三位一体主日という名前がついています。
三位一体という言葉は、神様と、神の御子イエス・キリストと、聖霊なる神が一体である、つまり三つにして唯一の神様であるということを現わした言葉です。
こういう風に説明をすると、だいたい皆一様に、まったく意味が分からない、と首をかしげます。わたしもその気持ちがわかります。
人間の目から見て、明らかに全く別の三者であるのに、それが一つだ、と言い張ることは、全く論理に適っていないからです。
しかも、三位一体と言う言葉自体が、聖書には一度も登場しない言葉なのです。
それは聖書が語っている神様の在り方を、私たち人間がどうにかして説明しようとして造り上げた言葉だからです。

ではなぜ神様は、そんな説明に苦しむような現れ方をされたのでしょうか。
この三位一体を説き明かすためには、人間の視点から神様を説明しようとするのではなく、神様が人間をどう見ておられるかという、神様の視点から考える事で、その理由が見えてくるのです。

まず、今日の第一日課を見ると、旧約聖書の一番最初の物語、神様がこの世界をお造りになった天地創造の物語が記されています。
神様は世界を作り、良しと言われました。生き物を作り、良しと言われました。人間を作り、良しと言われました。
そしてそれを一つ一つご覧になって「すべて」「極めて良かった」とおっしゃられたというのです。

そうして「良いもの」として造られたはずの人間は、旧約聖書の中で何度も罪を犯し、神様に背いた生き方ばかりをしていきます。
しかしよくよく読むと、その人々の中に、心の底から神様なんかいらないと思っていた人は一人もいないことがわかります。

自分たちが神様になろうとする、ということは何度もありました。
しかし結局自分の力が及ばず、苦しい状況に陥り、そのたびに悔い改めて「神様、助けてください」と人々は叫ぶのです。
神様の助けによってエジプトを脱出したときには、のどが渇いた、お腹が減ったとたくさん文句も言います。

やっと約束の地にたどり着き、定住した後は、侵略してくる外国に立ち向かうために、目に見える人間の王が欲しい、神様が選んでくれとわがままを言いますし、そうやって建てられたイスラエル王国が堕落していく旧約聖書の終わりの時代には、聖書の神様ではなく自分たちの都合の良い別の神様を信じていました。
こうしてみると、人間は神様なしには生きていけない存在なのだということがはっきりわかると思います。

新約聖書の時代に至っては、神様が遠い存在になって、律法が神様の代わりになっていました。
律法を文字通りに守る人が、神様の救いに一番近いと考えられていました。
でもその中でも、律法をきちんと守っていても神様に救われていると信じきれない人もいました。
また、いろんな事情があって、律法を守れない人々もいたのです。罪人や、徴税人たち、羊飼いたちなど、やむを得ず律法を破ってしまう人々は差別され、神様からも見捨てられた人々だと思われていた時代でした。

そのような中で、洗礼者ヨハネが登場して、誰も住んでいない荒れ野で「悔い改めよ」と叫ぶと、ユダヤ全土から人々が集まってきたのです。
ここでも人々が本当に求めていたのは律法の言葉ではなくて、神様ご自身、神様の救いであったということがここからわかると思います。
その求めに応えるように、満を持して、イエス・キリストという姿で、神様はやってきてくださったのです。
律法に込められた神様の思いを解き明かし、天と地という距離ではなく、隣人、友人という近い距離に生きてくださるために、神様が人間のいのちに生きてくださったのです。
それこそが人々が求めていた神様、救い主・メシアであったからです。

だからこそ、今日の福音書の箇所には、このようにイエスの言葉が書かれています。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
この「あなたがたと共にいる」神様であるということは、マタイ福音書を貫くテーマとなっています。
イエス・キリストの誕生物語の中で、イエスは「インマヌエル」である──つまり「救いは私たちと共にある」と、そのように呼ばれたお方であるという話から、マタイ福音書は始まっているからです。

これこそがイエス・キリストがこの世に来られた理由であり、人々が神様に願い続けてきた救いであったからです。

どんなに近くに神様が生きていても、人々がそれを実感することができない、神様、わたしと一緒にいてください、私を救ってくださいと叫び続けてしまうのは、いつでも神様が共にいるということを信じ切ることのできない罪が原因でした。
だから神様は、罪をすべての人々から取り除くことによって、人々を救おうとしたのです。
その方法が、イエス・キリストを十字架につける、という方法でした。
イエスが人間でなければ十字架の上で死ぬことができず、神様でなければ罪を赦すことができない、だからこそイエス・キリストは神でありながら人としてこの世に来られなければならなかったのだということが、キリストの生涯には証されているのです。

その一方でもう一つの問題が引き起こされていました。
キリストは十字架にかかって死ななければならないとイエスが弟子たちに語ると、弟子たちは不安と恐れに取りつかれてしまったからです。
隣人として、友人として神様が一緒にいてくださる、今イエス・キリストが自分たちの隣にいることこそ救いなのに、神様ご自身がそれを捨て去るのか? という不安が弟子たちを襲っていたのです。

だからこそキリストは十字架にかかって死ぬ前に、弟子たちに対して懸命に「別の弁護者を送る」から大丈夫だ、聖霊という形で神様があなたがたと共に生きるようになるのだということを、約束してくださったのです。
もし聖霊の約束がなかったら、今日の箇所でキリストを天へと見送る時に、弟子たちはあの十字架の前の晩と同じ気持ちになっていたでしょう。
しかし、キリストが隣人として共にいてくださる神様だとするなら、聖霊は、もっと近い場所で、私たちの魂のゼロ距離で生きてくださる神様として、共にいてくださる。そのような救いを受け取ったからこそ、弟子たちは喜んで復活のキリストを天へと見送ることができたのです。

このように、神様の視点から聖書を読み返すと、天の父なる神様、子なるキリスト、聖霊なる神様という三つの姿を神様が取られたのは、いや、取らざるを得なかったのは、一言に言えば、人間の罪がそれだけ深かったからなのです。

一緒にいるのにそれを信じない、自分の思い通りにならないなら神様なんていらないという。
でも神様は自分には必要だとも言う。目に見える形でそばにいてほしいという。
さらに言えば、今日の福音書をよくよく読むと、復活のキリストが全ての福音を明らかにした最後の最後でさえ、弟子たちのうちには「疑う者もいた」とさえ書いてあるのです。

「神様、いつも一緒にいてください。わたしを救ってください」という人間の絶えざる願いに、神様はあの手この手を尽くして、その求めを満たしてあげたい、なんとか人々をそこから救いたいと思ってくださったのです。
自分ではどうにもできない、罪によって引き起こされる人々の求めに対して、神様は、全知全能の力をなりふり構わず振るってくださったのです。
それこそが、神様が天の神様であるだけではいられなかった理由です。
イエス・キリストとしてこの世に来て、私たちの友となってくださったこと、十字架で死ななければならなかったこと。復活し、永遠の命をお示しになったこと。そして天へと昇り、その代わりに聖霊を送らなけれならなかったということの、すべての発端なのです。

私たちがどれだけ罪深く、時には神さまを裏切って心を離してしまったとしても、それでも神様は、私たちに、あなたはわたしが造った「きわめて良い」存在なのだと、言い続けてくださっています。
なぜなら神様の御言葉、聖書の一番最初の物語が、それを揺らぐことのない形で語ってくれているからです。
ですから、神様が三位一体の神様であるという理由とは、わたしたちへの果てしない愛の結果であったのです。
私たちが神様を信じるよりもまず、神様がわたしたちのことを、あなたは極めて良い存在なのだということを、信じてくださっている。
それは、私たちを愛しているからこそ、できることなのです。
だから、なりふり構わず、私たちを救おうとその御言葉と御手を伸ばし続けてくださっている。それこそが、三位一体の神様の御心なのです。

だからこそ私たちも、その神様の果てしない愛を、この三位一体主日に、私たちも受け取っていきましょう。
神さまが私たちを愛し、信じてくださっているように、私たちもそれに応えるように一人ひとりが「良い」存在として生きてまいりましょう。
そしてイエス・キリストが模範を示し、パウロが今日の第二日課で語っている言葉に耳を傾けながら、今週一週間を過ごしていきたいと思うのです。

「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(2コリ13:11-13)」

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