パートナーでもノンクリスチャンだと地獄に落ちる?(Iコリ7:14)

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なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。

──コリントの信徒への手紙一 7:14

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教会の家族には、夫婦のうち片方しかクリスチャンでなく、また教会にも通っていないという人々がいる。
そんな状況の中で、教会に通っている方のほうが、お連れ合いの方のために相談に来られることもしばしばある。
そして、教会に来られる方々はたいてい、お年を召しておられる方が多い。すると、すぐそばまでこの世の命の終わりが近づいていることを感じながら過ごしている方も少なくないのだ。
そうすると、一つの恐れが生まれる。

「キリスト教を信じなければ天の国に迎え入れられないとすれば、わたしの妻/夫は、死んだあとは地獄行きなのでしょうか?」

キリスト教は確かに「信じるものは救われる」と教える宗教だ。
しかしそれは、決して「信じないものを問答無用で地獄に落とす」ということではない。
なぜなら「神は愛です(ヨハネの手紙一 4:16)」とあるように、聖書の神は私たちを地獄に落としたくてたまらない神ではないからだ。
預言者エゼキエルを通してこのようにも言われている通りだ。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 ──エゼキエル書 33:11

たとえ悪人であっても、神様にとってはこの世に尊い命を与えた一人の人間であるのだから、愛さないわけにはいかない。自分の基準を満たさなければ切り捨てるのではなく、いつでも悔い改めることを願って、ゆるしと憐みの言葉をかけ続ける。それが聖書が語る神様の心であることが聖書には記されている。

教派によっては「セカンドチャンス」と言われるものがある。
たとえキリスト教信仰に入らずに天に召されたとしても、死後の世界において悔い改めて信仰に入るチャンスが与えられる、という考え方だ。
このような捉え方を否定するわけではないが、では信じない人は信じないままでも良いかというとそういうことではない。
イエスが神の国について語るとき、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)」と言ったように、今のこの世の私たちの関わりの中に、神様が望んでいる人と人との関係性──神の国が垣間見えるように関わりなさい、と教えられているのである。

だからこそ、パウロも夫婦間において片方しかキリストを信じていないとしても、その夫婦の関係性においては、クリスチャンと同様に聖なるものとして見られるというのである。
それはキリスト教を信じていないパートナーが今後も信じなくて良いということではなく、クリスチャンである人々の心が、パートナーが地獄に落ちるかもしれないという恐れから解放され、またその神様の深い配慮をうけて、その人も喜んでキリスト教を受け入れる(これも必ずしもクリスチャンになるということに限らない)道が開かれるようにするためなのである。

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