二つの「準備」
マルコ福音書を原典で読んでみよう、ということを始めた。
週一回程度その時間を取れるかどうかというところだが、早速興味深いところが見つかった。
Καθὼς γέγραπται ἐν τῷ Ἠσαΐᾳ τῷ προφήτῃ·
ἰδοὺ ἀποστέλλω τὸν ἄγγελόν μου πρὸ προσώπου σου, ὃς κατασκευάσει τὴν ὁδόν σου·
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。(マルコ1:2)
マルコ1:2の「準備させよう」と訳されているギリシャ語は「κατασκευάσει」である。
φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ· ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου,
εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους αὐτοῦ,
荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:3)
一方で、3節の「整え」は「ἑτοιμάσατε」というギリシャ語が使われている。
この二つの言葉は、訳的にはどちらも「to prepare」と訳せるのだが、日本語訳では若干の訳し分けで単語の違いを表しているように見える。
何が違うのだろうかと調べてみた。
二つの「to prepare」の違い
2節の「κατασκευάσει(κατασκευάζω)」はヘブライ人への手紙3:4では「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。」に使われている。造るという意味でも使われる単語だ。
ここで「あなたの道を準備させよう」としているのは神様から遣わされた使者(「天のみ使い/angel」を表す言葉)である。
ここで「あなた(人間)より先に」神様主導において、「道」が造られるわけである。
ここでの道とは、3節の「主の(キリストがやって来られる/私たちがキリストを迎える)道」にあたる。
一方で3節の「ἑτοιμάσατε(ἑτοιμάζω)」は、「整え」と訳されているが、このギリシャ語は今あるものを整理するのではなく「新しく造り出す」というニュアンスで使われるほうがふさわしい言葉になっている。
マルコ10:40ではイエスの御国における席順を「(神が)定める/ゆるされる」という訳の部分に当てられている(直訳では「(私が右か左の席をあなたがたに付与するのではない、)それどころか、逆に準備される」)。
特にルカ福音書においては倫理的、宗教的な意味を持つ言葉であり、ここではメシアの使命として、「整えられた」──準備ができた民を「造り出す」こと(ルカ1:17)──人々の悔い改めによって作り出される、ということとして使われる言葉である。
そして、2節では未来形となっていた言葉が、この3節ではアオリスト形で「準備する」になっているため、繰り返しのニュアンスが込められていると言えよう。
神が主導する悔い改めの道
つまり、2節の「準備」とは神(が送った使者/天使)が「(道を)造り出す」という意味の言葉であり、神ご自身の行為としての意味合いが強い。
しかし3節の「整え」は私たちの内に起こる悔い改めによって造られる道に関わる言葉になっている。こちらは私たち人間が関わる余地が含まれている。つまり、悔い改めさせられる、ということである。
神が導き、私たちが悔い改めを引き受けていく。神主導でありながら、その悔い改めをするかどうかは私たち人間の側に委ねられている。
そしてその悔い改めとは、繰り返し起こるものとしての変化形(アオリスト)が用いられているということだ。
イエスが公生涯をはじめ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」と語る前に、実は旧約の預言において、救い主を迎えるための悔い改めへの呼びかけは既に為されていた、ということがまず主張されているということだ。
聖書における悔い改めとは、「反省する」ことではない。「神の望む方向に向きなおる」ことだ。
神様が望まれていることを知り、その方向に心を向ける。
マルコはここにおいて旧約のメッセージを要約し、私たちの心を神様に向けさせる呼びかけから始める。そうしてイエスが来られた時、「彼はあなたにとって何者であるか」を問う素地を読者のうちに「準備させ」ているのである。
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