わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
──テサロニケの信徒への手紙一 2:3-4
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キリスト教を宣教する──他の人々に知ってもらいたいと願い、語り、教えることの原動力について語られている。
それは、自分が迷うように人々が迷ったりするよう巻き込むためではないし、お金を不当に巻き上げたり、あらゆる搾取や詐欺にかけようというのでもない。
上下関係をつけ、従わせようとするためでもない、とパウロは言う。
そして「相手に喜んでもらうため」でもないとさえ付け加えるのである。
徹頭徹尾、パウロの行動(宣教)の根拠は神にある。
私たちの心をよく知っておられる神様が喜ばれるように、むしろあらゆる人間的な打算や思いによらない形で聖書の教えは語られるべきなのだ、と言うのだ。
そのために神様は私たちにこの教えをイエスを通してお与えになり、そのみ言葉に沿って生きるようにと勧めている。イエスの姿を通して模範を示し、その道をたどるようにと整えられた。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』(マルコ1:3)
神様に喜ばれて何になる、という考えそのものが、私たちの利益を求めようとする打算そのものだ。
そのような考えを持った途端に、私たちはそのうちにある罪によって、「相手/神のため」ではない「自分のため」の言葉、行為、振る舞いに転がり落ちていくことを、パウロはよく知っていたのだと思う。
だからこそ、このパウロの言葉は宣言であり、また同時に私たちが常日頃から悔い改めるべき戒めとしても聞こえてくる。
イエスは公生涯の始まりに、このように語る。
それは、最も神様が人々に伝えたかったことであったに違いない。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:15)
神様という相手が喜ばれるにはどのように生きればよいか。
そこからブレることばかりの私たちだからこそ、絶えず悔い改めが必要なのだ。
しかしその悔い改めを通して、いつも神様は私たちの基、私たちの基準、私たちの根拠となってくださるのだ。
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