主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
──イザヤ書 2章4節
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旧約聖書を紐解いてみると、人間の歴史と言うのは争いの歴史であることがわかります。
人間が造られ、最初に犯した罪は責任転嫁でした。食べてはいけないと神様から命じられていた善悪の知識の実を食べてしまった責任を、最初の人アダムは、自分のパートナーであるエバに、あるいはそのパートナーを造られた神様になすりつけていく──そんな物語から聖書は始まります。
エバがカインとアベルと言う二人の子どもを産み、その二人の間に起きた罪は、兄弟殺しでした。家族に対してさえ相手の命を自分勝手に奪い取る、そのような罪が描かれていきます。
その後も、人間たちは常に争いあい、奪い合い、傷つけあうということをやめられない罪を抱えていることを、聖書は繰り返し描いていきます。
それはイエスの時代も、そして旧約聖書から3000年以上の時が経った今でも、私たち人間の在り方は変わっていません。
世界中のそこかしこで戦火がやむことがなく、日本の為政者たちも、世界の戦地に武器を輸出できるように法律を変えてしまいました。
誰かの命を奪うことに加担し、それによって利益を得ようとすることは、人が歴史の中で繰り返してきた罪そのものであると思います。
そのような、人間であれば誰の中にもある罪を見つめることなしに、平和について考えることはできません。
そのような罪深い私たちに向かって、預言者イザヤは今日の聖句の言葉を届けるのです。
神様の言葉を聞き入れた人々は、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」のだと。
剣や槍は人を傷つけ、命を奪うための道具です。
逆に、鋤や鎌は、大地を耕し、命を生かす実りを収穫するための道具です。
つまり神様が私たちに望まれる平和とは、ただ戦いをやめるということではありません。
人を殺すための力や、私たちの中にある罪からくる思いを、人を生かすための力へと造り変えていくことなのです。
8月が近づいてきました。戦争の記憶が呼び起こされる季節です。
平和とは、遠い過去の出来事を悼むだけのものでも、遠い国の問題として眺めるだけのものでもありません。
私たち一人ひとりの中に、家庭の中に、そして世界の中に、平和をどのように広げていけばよいのか。
それは、剣を鋤に持ち替えるように、私たち一人一人が、誰かを傷つけるかもしれない言葉や態度を、誰かを生かす言葉や態度へと意識的に変えることから、平和は始まっていくのです。
イエスも人々にこう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
私たちの誰もが、神様がこの世に命をお与えにならなければ今日ここにいません。あなたの命をお与えになった神様は、あなたがその命を傷つけあうために使うのではなく、お互いを豊かに活かしあうような人間関係へと生きて欲しいと願っておられます。
誰一人として例外なく、あなたは神様から我が子として愛されている、神の子であるからです。
だからこそイエスが言った通りに、私たちこそ神様に愛され神様の愛に生きる神の子として、平和を創り出す生き方へと立たされていきたいと思うのです。