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どのような理由にせよ、個人の尊厳は損なわれるべきじゃない

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羽生結弦氏の離婚の報道と共に、様々な反応を読んでいる。

たしかに彼はフィギュアスケーターの日本代表として輝かしい成績をおさめ、ほとんど崇拝とも言える熱狂を日本のある人々にもたらした人だった。その彼が、おそらくそのような自分の立場ゆえに慎重に慎重を重ね、検討に検討を重ねた結果、「もしかして羽生結弦は”スケート”と結婚すると言っているのか?」とさえ誤解してしまえるような、きわめて婉曲な表現で綴られた結婚報告を届けるに至った。

結婚のお相手は一般の女性だ、と言う。しかしマスコミ含む喧しいインターネットは彼女の素顔から年齢まで暴露した。その結果、約100日と少し、彼と彼女の結婚生活はおおよそ平安とは言えないものだったのだろう。

離婚に際して、羽生結弦という人が訴えているのは、「誹謗中傷や無許可の取材、報道等、迷惑行為」を止めてほしいということだ。離婚の報告はその結果起こったことである。それはつまり、突き詰めて言えば、何の罪もない一人の個人と、それに関わる人々の尊厳が、一方的に損なわれているということが第一にある。

たしかに彼は日本を代表する、最も輝かしい功績をおさめたフィギュアスケーターだった。それを否定する気も見ないふりをしろと言うつもりもない。

でもそれ以前に、彼もまた一人の人間であり、心やさしい28歳の一人の青年であることは、揺るぎない事実なのだ。

誰であっても、わたしたちと同じ一人の人間であるということが忘れ去られていいわけがないし、その人権と日々の平安が脅かされてよい理由は一つもないはずなのだ。

それにもかかわらず、それほどの有名人だから、それを想定して結婚だってするべきだったとか、この離婚報道に対してさえ批判の声さえある。

これだけ傷つき、苦渋の決断を強いられ、何一つ悪いことをしていないにも関わらず日々の平安を奪われた人にそのような言葉をかけることは、無情という他ない。マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と語ったが、まさにその人は、傷ついた彼らの心に無関心なのだ。

有名人だから。類まれな人だから。人ではなくてコンテンツとして扱ってよいという、人の尊厳に対する無関心が、徹底的に彼らを打ちのめし、結婚という本来幸せであったはずのものを、絶望を引き寄せるものに変えてしまった。僕らがすべきだったのは、彼を、徹頭徹尾一人の人間として尊重をするということだったのではないか。そして今となっては、彼が出さざるを得なかった悲しい決断を、沈黙のうちに受け取って心に留めることだけが、最大の慰めになるのだと思う。

願わくば、彼自身と彼に関わり、無為に傷ついてしまったすべての人々の心が、静かな平穏を取り戻すことが出来るようにと祈っている。