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分散という名の平穏

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SNSが分散志向になって、mastodonやBlueskyなど色んなSNSが立ち上がっているのは良いと思っている。

「ここさえ見ればいい」の「ここ」が不安定だったり、デマや不確定な情報ばかりだったり、不安を煽るような場所になってしまってはいけない。それを引き起こす一番の原因は、そこにいるユーザーの数があまりにも多すぎること(これは利点にもなりうるが)、そしてそれを運営側がコントロールできていなかったり、ユーザー側で制御できる選択肢がない、ということにあると思う。

いちばん大事なのはひとりひとりがディスプレイの中ではなく目の前の現実に生きることだ。その上でインターネットを通じてアクセスできるあらゆるサービスは、私達にとって役立つ場所であって欲しい。的確な情報共有、心を良い方向へと向かわせる場所としてSNSが保たれるために、サービスやユーザーの分散は必要なことなのかもなと思う。

今回、石川県能登で起きた大地震によって、旧Twitterがどれだけ信用性のないものになったかを実感した人も多かっただろう。しかし一方で、Blueskyが完全にその役割を取って代われたかと言うと、まだまだそうはいかないと感じた人が多かったのではないだろうか。

しかしそれは、Twitterが打ち立ててしまったSNSのあり方を私たちはもう一度見直さなければならない、という点が浮き彫りになったということかもしれない。SNSは本来、一次情報を取得するところではなかったはずだ。ある一次情報がリンクで共有され、さらにそれについて吟味したり議論したりすることがメインの場であったはずだ。

Blueskyはその役割を、ある程度果たせていたように思う。

SNSに流布する情報そのものが一次情報となるとき、それはある意味で情報の集約場となるが、一歩間違えれば十把一絡げにされた情報の坩堝になりかねない。公的な機関ではない、一次情報を発信することを生業としない人々の情報さえ、同じ価値を持って流れ込んでくる。何が正しいものなのか、何が必要な情報がわからなくなる。

その意味で、SNSが分散志向を選択し、かつてのSNSのあり方をサービス側もユーザー側も取り戻す流れが今、来ていることは好ましいことだ。私達にとってインターネットが、私達を惑わせ悩ませ不安にさせるものとしてではなく、必要な情報を取捨選択し、平穏のために配慮しあえる場所で有り続けて欲しいと願ってやまない。そして情報が分散されるということの必要性と有用性を、今回のことを通して改めて意識させられたことを覚えておきたい。